プロレス界の司馬遼太郎こと有田哲平の「有田と週刊プロレスと」に真偽を問うことは全くの時間の無駄。

標準

まず有田と週刊プロレスとの構造について分析すると、

芸人さんがある史実について映像を使わずに自らの
説法だけで映像を浮かび上がらせて楽しませる
芸だと思います。

これは、講談やその発展形の落語と同じだと思う。

昔は録画機器、録音機器等は無かったので、
ある事件が発生したらその情報をかき集めて
早ければ早いほど聞きたがる客が多かった。

当然、人づてなので、間違いもあれば
事実もあったが、それを知るのは当人以外
存在しなかった。

しかし、その当人の話についてもプライドが邪魔して
残念ながら事実かどうかは確証は得られない
ものだった。

また特に源平や忠臣蔵といった現代の教科書で
トップで扱われているような大きなネタの場合は
聴きたがる客が多いので
複数の講談師が競うようにネタにしていたので、
講談師によって内容が違っていた。

その時、真偽よりも、当然、面白いか面白くないか
がより社会に広めるキーポイントだった。

今でいうと怪談話とかUFOの話とかもそうですよね。

いろんなものが関わりすぎていて
それらをすべて検証して付け合せて
真偽を確かめるのは不可能に近いんですよね。

プロレスもしかりです。

例えばアンドレと前田についても、
アンドレと前田の語る内容が正しいかと言ったら、
それはわからないわけです。

人間のやることですから、
裏で口を合わせていたという
疑いは永遠に晴れないわけです。

ましてや、時とともに人間は死ぬし、
記憶も補正されたり、欠如していきます。

そういった場合、いろいろな昔ばなしや
大河ドラマと同じように、人々に
語り継がれていくのはより自然に
繋がれた面白い話なわけです。

それが有田と週刊プロレスとだということです。

桂歌丸の真景累ヶ淵、
歌舞伎の仮名手本忠臣蔵
NHKの大河ドラマ
三笑亭哲平のプロレス栄華盛衰

なわけです。

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